ある日、丹下段平似のボクシングコーチに呼ばれて近くに行くと、一冊の古びた本を渡された。
「読んでみて」と。
その本には、その「丹下段平」コーチの半生が書かれていたのだ。
その半生がまるで小説のようで、とても興味深い。
コーチは、札幌出身だが、若いころから自分は誰からも顧みられない、「はぐれ者」であると自覚するようになった。
進学校の高校を卒業しても大学に進学せず、20歳になるとプロボクサーを目指し、上京する。
しかし、目の病気からプロボクサーになる夢は断念せざるを得なかった。
そして次に寺山修司の劇団に身を寄せることになる。
とはいっても演劇には全く興味は無く、ただただ寺山修司を師と仰いでいただけだった。
しかし、そこでも「はぐれ者」となり、結局、退団する羽目となる。
その頃、政治的に北方領土問題が話題となっていた。
コーチは、日本固有の領土というものの、政治的な配慮からソ連に返還を強く求めることができない北方領土は、ある自分と同じ「はぐれ者」と考えるようになった。
そして、コーチは、ある日、漁民の制止にもかかわらず、根室の漁村から北方領土を目指して泳ぎ始めたのだ。
夏の北海道と言えども、道東の海水温は冷たく、命の危険があった。
一昼夜泳ぎ続け、近くの小さな岩礁にたどり着いたが、突然、強烈なサーチライトに照らされた。
そして、そのまま樺太の刑務所に収容される。
ロシア語はそこで他の受刑者から学んだそうだ。
当時、東西冷戦の時代であり、このような不法密入国者は厄介な政治問題の火種となる可能性があった。
自分は日本に強制送還されることなく、ひっそりとソ連政府に抹殺されるのではないかと覚悟を決めたという。
結局、半年後に日本に強制送還される。
強制送還された自分は、北方領土を憂い、果敢に活動した日本人としてマスコミなどに大々的に取り上げられると思っていた。
しかし、現実はそうではなかった。
反対に、危険人物として常に「公安」の監視下に置かれるようになったという。
それでもコーチの「はぐれ者」精神は燃え尽きることがなかった。