3年間の単身赴任を終え、私は自宅から幹部学校の航空研究センターに通った。
幹部自衛官を対象とした部内紙の歴史は古く、さまざまな情報を入手することが困難な時代に、指揮、戦略、部隊運用および兵器技術に関する情報を論文と言う形で読者の幹部自衛官に提供していた。
この部内紙は、読者の購読料により運営されているので厳密にいうとこの編集業務は、自衛隊の正規の業務ではなかった。
外からつつかれたら痛い、ある意味アンタッチャブルなポジションだった。
しかし誰かがやらなければならないポジションであり、論文執筆が得意な私が就くことになったわけだった。
毎月毎月発行する部内紙に掲載する記事を集めるのが主な仕事で、1尉や2尉の若い幹部自衛官に頭を下げて記事の投稿をお願いしなければならない。
大半は、無下に断られるのが普通だった。
航空教育集団の課長で、司令官の右腕として航空自衛隊の飛行教育に睨みを利かせていた自分がなぜこんな仕事をしなければならないのか?と考えるようになり、モチベーションは上がらなかった。
少なくとも定年近くまではこのポジションで働かされるようだった。
上司は自分にとって初めてパイロットでない人だった。
自分で自分のことを「俺は頭が切れる」と言ってはばからない人で、果たして自分のことをどれだけ考えてくれているか疑問だった。
そんな上司に、一般大学の修士課程に行かせてほしいとお願いすると、あっさり了解してくれた。
今年度はすでに受験者が決まってしまっているので、来年度の受験者に推薦してくれることになった。
その代わり、定年後も再雇用の65歳までこの分野で勤務することが条件だった。
防衛大学校に進学した理由の一つは、大勢の部下をけん引する組織のリーダーになりたいからだった。
だからこのまま教育・研究分野で骨を埋めることに抵抗があった。
悩んだ末、数か月後、私は上司に大学院進学希望を取り下げた。
ここも自分の人生のターニングポイントだった。