戦闘機パイロットの夢を追いかける青春物語

戦闘機パイロットになる夢を追いかける青春物語

防衛大学校物語 第235 -恐怖のバイト-

大規模な転職フェアーに参加してみた。

地元の観光ホテルのブースがあり、丁寧に対応してくれた。

思わず、田舎でホテルの「布団敷き」でもするのも悪く無いかなぁって頭をよぎった。

一方、電車とバスを乗り継いで京浜工業コンビナート地区にある物流倉庫会社の面接に行くと、自分よりはるかに若い担当者が「貴方なんか務まるわけない」と面と向かって言われることもあった。

だったら面接に呼ぶなよなぁ、と憤りを感じた。

バイトで一番キツかったのは某食事宅配システムの配給センターでの仕事だった。

発泡スチロールの容器を集めてベルトコンベアに乗せる単純な仕事だが、次から次に発泡スチロールがやってきて、手を休める暇もなかった。

8時間、ひたすら発泡スチロール軍団に追い詰められるような恐怖を感じた。

今でも道端でその会社の宅配小型トラックを見るとゾッとする。

おそるべし。

別の大きな物流倉庫では夏のお中元を運ぶ仕事をした。

棚からどんどん運んできて包装するグループに渡す仕事だった。

高価なお中元と高級デパートの包装紙を見ていると、世の中には、こんなモノを贈ったり贈られたりする裕福な人がいるのに、自分は今、時給1000円の仕事に必死に汗を流していると思うと悲しくなってきた。

またある日のバイトは高級住宅街に建設予定のアパートの工事現場の仕事だった。

地面にヘルメットをかぶった頭をこすりつけながら奥にあるナットを緩めている私のそばを、通勤途中のサラリーマンやOLたちが通り過ぎる。

飛び出した針金でその手は血だらけになる。

恥ずかしさと絶望が入り混じった気持ちだった。

「お母さん、助けて!」

私は心の底で叫んだ。

全く明日が見えない中でバイトに精を出す48歳の夏だった。

防衛大学校物語 第234 -日雇いの本領-

今日の派遣先は駅前にあるビジネスホテルの建設現場だった。

どこの工事現場でも毎朝8時に朝礼とその後に体操がある。

各職種ごとに縦列で整列するが、端からその各列の先頭が本日の作業の注意点を簡単に発表しなくてはならない。

元幹部自衛官の性だろうか?私はその先頭に並んでしまった。

「暑くなってきたので、足場の確認を注意します」と違和感なく発表した。

今日の現場にはベトナム技能実習生が4名いた。

皆、19歳で、来日後、日本語学校で4カ月勉強して、今日が初仕事とのことだった。

私は彼らが英語くらい喋れるのかなと思い、英語で話しかけてみた。

しかし全く英語は喋ることは出来ず、日本語もたどたどしかった。

兎にも角にも、彼らとの共同作業が始まった。

今日の仕事はエアコンの配管を通すのがメインある。

私と技能実習生は身振り手振りと「OK」の合図でなんとか仕事をこなしていった。

昼になるとコンクリの壁が剥き出しの現場で昼食をとる。

その時、いわゆる「飯場の飯炊きババア」が社員さん用の味噌汁を作って待っている。

ベトナム技能実習生は、準社員待遇なので、弁当と味噌汁を貰える。

「飯炊きババア」は私たち派遣にも味噌汁を勧めてくれた。

こういう場合、有り難く頂戴するものが大人の対応だと思った私は味噌汁を頂いた。

しかし、ベテラン派遣労働者風の者たちはそんな事には全く関心を寄せる事なく、ベンチで横になって昼寝をしていた。

休み時間に少しでも体力を回復しておこうという考えなのだろう。

プロの日雇い労働者とはこういうものなのだと少し感心した。

 

防衛大学校物語 第233 -ついに日雇い労働者-

次の仕事を見つけなくてはならないが、元戦闘機パイロットなんて潰しが効かない。

とりあえず転職サイトに片っ端からエントリーして面接の機会を待った。

地元のハローワークにも通った。

比較的良い条件でも月給30万円以下である

元公務員だったため失業保険は適用されなかった。

面接の機会はそうちょくちょくあるものでは無いので日雇いのアルバイトをする事にした。

防衛大入学以来、アルバイトなんてしたこと無かったが、バイトと言えば力仕事というイメージだったため、工事現場のアルバイトに申し込んだ。

最初の派遣先は、五反田の繁華街のビル工事現場だった。

収入が無いので朝5時に起床して、1人で大きめのおにぎりを2個作った。

贅沢は出来ない。

妻に迷惑をかけられないという思いが強く、そっと早朝の家を出た。

「雑工」といって、工事現場で出る銅線などのゴミを一日中収集して回る仕事だった。

ヘルメットに安全靴姿でコンクリート剥き出しのビル工事現場を歩き回った。

工事現場では長袖は基本なので、まだ6月だというのに蒸し暑かった。

ペアになった同じ雑工の人は丁寧に仕事のやり方を教えてくれた。

最初に入社した会社とは随分違うものだと思った。

根が真面目なので、働いている間は「自分の職務をこなさなくては」と一生懸命だった。

一日中8時間働いて1万円を貰った。

20日働いたとしたら20万円。

パイロットだった頃の月給の何分の一だろうか?

「仕事に貴賤は無い」とはいうものの、自衛隊の仲間にこの姿を見られたらどうしよう?と少し怖かった。

先の見えない日々が続いた。

 

防衛大学校物語 第232 -元幹部自衛官48歳無職-

自衛隊を中途退職して入社した会社は2カ月半で辞めてしまった。

無職の求職者となってしまったが、全くアテが無いわけでもなかった。

以前から相談に乗ってもらっていた転職エージェントの人から、鹿児島にある大学のパイロット養成学部で地上教官を募集しているとの情報を得ていた。

転職エージェントの方から、「今度その大学に行く用事があるので、一緒に売り込みに行こう」と提案を受けた。

私はその提案に一縷の望みをかけていた。

数週間後、鹿児島までの飛行機チケットを購入して、転職エージェントの方とその大学に向かった。

理事長と名乗る人と実質的な面接が始まった。

実はその理事長は元航空自衛隊の幹部自衛官であり、定年退官後、この大学の理事長の職に就いたという。

私は、その理事長は自衛隊の先輩として無職で困窮している私に救いの手を差し伸べてくれるはずだと思っていた。

しかし、その理事長は、なぜ私が自衛隊を途中で辞めたのかなど根ほり葉ほり聞くと、「そんな様子だと、うちの大学で働いてもすぐに辞めてしまうにきまっている。考えが甘い!他の会社で5年以上務まったら雇ってやってもいい」と説教をし始めたのだった。

その時の理事長の目は、昇任できずに晩年、司令部などで先輩風吹かせて後輩たち困らせている幹部自衛官、通称「困ったちゃん」そのものの目をしていた。

それでも私はここで食い下がる訳にはいかないと必死だった。

「どうか…どうか....雇ってくださいイイイイ~」と嗚咽も漏らしながら懇願したのである。

理事長は厳しい顔つきのままだった。

重苦しい雰囲気の中、私は飛行機で帰途についた。

後日エージェントから不採用の連絡を受けた。

元幹部自衛官、無職の48歳となった。

 

防衛大学校物語 第231 -物流倉庫送りの刑-

成田空港から更にバスで数十分のところにある物流倉庫に行って、小さなワッシャーを袋詰めする作業を部長から言い渡された。

小指の爪位のワッシャーを500個ずつビニールの袋に一日中入れる作業である。

作業指示は例の同僚女性社員からメールで送られてくる。

ワッシャーを1個でも入れ間違うと許さないという内容だった。

根が真面目なので朝から夕方まで間違わないようにワッシャーを何度も数え直しては袋詰めした。

窓の外を見ると成田空港を離発着する旅客機が見えた。

先日、割愛で民間航空に就職した自衛隊パイロットの同期は今頃飛んでいるのだろうか?

それに比べ、今の自分は田舎の物流倉庫で1人でワッシャーの袋詰め作業である。

自分の運命を呪った。

作業が終わるとまたバスと電車を乗り継いで3時間かけて自宅に帰る。

それを毎日行った。

ある日、粗相をした私に対して、女性社員から大きな赤字で「警告」と書かれた指導のメールが送られてきた。

心がポキッと折れた。

私は部長に「会社を辞める」と書いてメールの「Enter」ボタンを押した。

次の仕事も決まっていなかったが、とにかくこのままでは精神が持たないと思った。

48歳の元幹部自衛官は、ついに無職となってしまった。

 

防衛大学校物語 第230 -転職先での辛い経験-

今思うと完全にミスマッチだったと思う。

会社にとっては、元幹部自衛官はこんなに仕事が出来ないのか?と思っただろうし、私にとっては、新入社員をきちんと育成する余裕が全くない会社だった。

顧客から受注のファックスを受け取って、端末のシステムから発注、輸送手配を行う一連の業務が上手く覚えられなかった。

自衛官の時は、こんなファックスを取ったり、システムに入力したりする仕事は女性事務官がやる仕事であり、幹部自衛官がする仕事ではなかった。

何度も同じことを聞かれる先輩女性社員からは「これならアルバイト雇った方がよっぽどマシだわ」と叱責を受ける始末だった。

短いタイトなスカートを履いた小綺麗な女性のこめかみに※マークが浮き上がるのを私は初めて見た。

ある日、部長から全く理解不能な業務指示が突然メールで送信されてきたとき、私は机の前で2時間、思考停止状態となってしまった。

軽い心的ストレス反応が出たのだと思う。

こんなことは長い自衛官生活で一度も無かった。

昼食は、目の前の日比谷公園で1人で菓子パンを食べていた。

その時だけが唯一気持ちが和らぐからだ。

ゴールデンウイーク前に、部長と面談があった。

これまでの私の勤務状況を見ると及第点は付けられないとのこと。

初めは営業担当を考えていたが、アルミ製品を取り付けるための特殊な器具の修理担当はどうか?との提案だった。

修理担当は70歳近い年老いた社員が担当していた。

私はその提案を受けるしか無かった。

もし受けなければ、試用期間の終了とともにクビになる恐れがあったからだ。

部長の前で涙がポロポロ落ちてきた。

その様子を見た部長は「公務員はメンタルが弱いからなあ」と呟いた。

入社して2週間で自衛隊を辞めたことを後悔し、1ヶ月後には、この会社を辞めたくなった。

 

防衛大学校物語 第229 -元自衛官はつらいよ-

真新しいスーツに新しいビジネスバッグを片手に日比谷公園に面した高層ビルにあるオフィスに出勤した。

心機一転、新しい人生の第一歩のはずだった。

社員が働くオフィスに入るのは初めてだが、案外質素でこぢんまりしていた。

特殊なアルミ製品の会社営業マンだが、まずは、受注・発送のなどの業務をマスターする事になった。

毎日、50通位のメールが流れてくる。

何が何だか分からない。

自衛隊時代ではメールなんかほとんど使わなかった。

また受注・発送の手順を同僚の「お姉さん」から教わるが、よく理解できないものだから、すぐに彼女に聞くハメになる。

そもそもそんな仕事は自衛隊では女、子供のすることだった。

とにかく、受注・発送業務を覚えるだけでも苦戦したというのが本当のところだった。

それに加えて、サラリーマンとしての基礎的知識を養うために、簿記とMicrosoftのoffice検定の資格を取得するため、終業後に資格学校に通う事になった。

仕事で頭がいっぱい、いっぱいの上、さらに勉強しなければならなかった。

何よりも孤独だった。

防大入学以来、いつも仲間が側にいて、困ったことがあれば必ず誰かが助けてくれる安心感があった。

しかし、今は誰も味方がおらず、一人ぼっちになった気がした。

職場にはお局お姉さん2人しかおらず、部長はほとんど外回りで不在だった。

いつしか、1人で日比谷公園のベンチで昼食をとる自分がいた。

こんなはずじゃなかったと思った。

しかし、もう元に戻ることはできない。

孤独感だけだった。