懸命の捜索によって航空機の破片などが回収された。
格納庫に置かれたその残骸を見た時、あんな大きかった戦闘機がシュレッダーに入れたのではないかと思えるほど細かく切り刻まれ、破断面は鋭利な刃物のようだった。
ところどころ血のような跡が付着していた。
事故から約1か月がたち、部隊葬が行われることになった。
前日、医務室の一室を遺体安置所に見立てて、私たち飛行隊のメンバーが交代で一晩中線香を燃やし続けた。
もちろん遺体は無いので、ミイラ男のように包帯をぐるぐる巻きにした二体の人形に制服を着せ、制帽をかぶせて寝かせているだけだった。
翌日の出棺時に、医務室の冷蔵庫からジップロックに入った僅か200グラムの肉片を取り出し、それぞれの「人形」の中にいれて皆で外に担ぎだした。
部隊葬では飛行隊長が泣きながらお別れの言葉を述べていた。
数カ月前に発生した隣の飛行隊での事故でも飛行隊長が泣いていた。
飛行隊長はこの事故の責任から逃れることはできない。
一生、背負っていかなければならないのだ。
私はこのとき飛行隊長の責任の重さを認識した。
私は当時喫煙していて、夜は官舎のベランダでタバコを吸うのが習慣だった。
心に傷がつくというのはこういうことなのだろうか。
友人を航空事故で失って以来、ふと事故のことを思い出すと、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
タバコを吸いながら「なぜ、友達を救えなかったのだろうか…」と考えているうちに、涙が零れ落ちた。
この状態が3年間続いた。
事故から3年たった時、私は、もう心の傷が癒えたことを悟った。
友人の命日をすっかり忘れていたのだ。
このころ三沢基地で経験した3つの航空事故はその後の私に大きな影響を与えることになる。