もしカ病気にならずタールに派遣されていたらもう少し違う道を歩んでいたのだろうか?と思うことがある。
私の前任と私の交代要員として派遣された同期生は、その後、外務省に出向し、防衛駐在官として海外の総領事館で勤務することになった。
腰痛の件を含め、また身体的な理由で大切な任務を全うすることができなかった。
話しは変わって、1年後に西部航空方面隊が50周年を迎えるため大々的にイベントを行うことになった。
さまざまなイベントがある中、記念誌を作成することになった。
記念誌などは総務部の担当業務だと思っていたが、防衛部にその作業が回ってきた。
そして、私が記念史作成のリーダーにされてしまった。
米空軍士官学校勤務時に米空軍が50周年記念アルバムを発行した。
そこには一切写真は使われておらず、全て航空機なの活躍を絵画で表現する「アビエーション・アート」で米空軍50年の歴史が紹介されていた。
私は、これを真似て西部航空方面隊の各部隊の歩みを航空絵画で紹介しようと決めた。
全く面識のない当時稚内分屯基地で勤務していたK空士長が航空絵画の達人と噂を聞いて連絡を取った。
そのK空士長は偶然にも私と同郷だった。
私の帰省に合わせて故郷でK空士長と打ち合わせを行った。
以降、私はK空士長とメールで航空絵画の打ち合わせを行うとともに、古いボロボロの部隊誌を読み漁り、説明文の推敲を休日返上で行った。
記念誌作成が、ほとんどライフワークのようになっていった。
記念史作成にはある程度の経費が必要であった。
司令部の幕僚長は航空幕僚監部の前会計課長であった。
「いくら必要なんだ」という幕僚長は、電話一本で記念誌製作のための予算を確保してくれた。
その結果、記念誌は、地方司令部の部隊誌としては内容も表装も立派なものとなった。
読み物として50年の歴史を紹介し、途中に挟んだ航空絵画も良いアクセントになったと自画自賛している。
カタールに派遣されていなければ記念誌作成の業務携わることはなかった。
自分の力作が形として残ることは貴重な経験だと思う。