戦闘機パイロットの夢を追いかける青春物語

戦闘機パイロットになる夢を追いかける青春物語

防衛大学校物語 第208 -在日米空軍司部勤務-

危篤の父に会うための帰省から沖縄に戻った私は、その1か月後、横田にある在日米空軍司令部の連絡官に異動となった。

異動して数日しかたたないうちに、実家の母親から父親の逝去の連絡があった。

葬儀のため私は再び実家に戻った。

高校卒業後、自衛隊員として全国を転々としていた私にとって、父親が亡くなったからといって特に悲しいという気持ちは無かった。

しかし、父親に振り回されていた母親にようやく安泰の日々が訪れたことを息子として少し嬉しく思った。

横田基地での勤務は、長い自衛隊勤務の中で一番暇な勤務だった。

司令部の建物の中に航空自衛隊連絡官用の事務室が用意されていたが、大した仕事は無かった。

昔は英語が堪能な幹部自衛官は今ほど多くはいなく、横田の連絡官が米軍と航空幕僚監部や航空総隊司令部の間の仲介役となった。

しかし、現在は英語を流暢に話す幹部自衛官が多くなるとともに、数年前から航空総隊司令部は横田基地に移転し、幕僚たちは直接、米軍人と会話することが可能となったのだ。

横田の連絡官の存在意義がなくなっていた。

着任後、しばらくして在日米空軍司令官のA中将と1対1での面談があった。

その会話の中で、私の父親が亡くなったことに触れ、父親の職業について質問を受けた。

私は「私の父親はトラックの運転手だった。」と大きなハンドルを切るしぐさを添えて少しおどけて回答すると、A中将は少し驚いた表情を見せた。

米軍人にとって、トラックの運転手の息子が戦闘機乗りになるなんてありえないのだろう。

A中将は、「さぞかし、お父さんにとって自慢の息子だったんだね」と付け加えて語った。