戦闘機パイロットの夢を追いかける青春物語

戦闘機パイロットになる夢を追いかける青春物語

防衛大学校物語 第242 -保育園まわり-

1カ月間の保育園研修を終えて、私は久しぶりに本社に出勤した。

私はエリア担当として都市部にある十数か所の保育園を担当することとなった。

エリア担当と言っても、園長などから施設の修理を頼まれたり、新しく導入した園児の登園管理システムの使い方の説明を求められたりするなど御用聞きのような雑用が多かった。

ほとんどが女性ばかりの保育士にとってITは苦手のようである。

しかしながら、私自身、自衛官の時はITとは無縁な職場環境だったため、保育士たちの期待に上手く応えることはできず、いつも逃げ回っていたのが実情だった。

園が自治体による監査を受けるときは、私も陪席し、対応しなければならなかった。

最初のうちは私より若い上司と一緒に担当する園を回った。

保育園を訪問する時には気をつけなければならないことがある。

それは園児たちがお昼寝をする時間帯に訪問する時は、園の入り口のインターホンを押してはならないのだ。

せっかく寝ついた園児をインターホンの音で起こしてしまうからだ。

働いている保育士に敬意を示しつつ、そっと園に入った。

いつも困ったのは、保育士不足でシフトが回らない、保育士の人数を充足して欲しいという園長からの切実な相談である。

その背景には、保育士が簡単に辞めてしまう問題があった。

世間は待機児童の問題もあり、どこの保育園でも保育士を募集していた。

だから園内の人間関係に嫌気が差せば、保育士は簡単に園を辞めて別の保育園で働き始めるのは簡単なのだ。

 

防衛大学校物語 第241 -保育園の課題-

保育園業界は、待機児童の課題を抱えていたため、自治体は園児の受け皿となる保育園を沢山必要としていた。

入社した保育園の運営会社はこれに乗じて自治体からの補助金が比較的多い都市部を中心に毎年、保育園を幾つも開園して急成長したのだった。

しかし、保育士の処遇の問題もあり、保育士のなり手が少ないという現実もあった。

保育園の収入は専ら自治体からの補助金で賄われているため、国の基準に基づいた最低限の人数しか雇うことが出来ない。

このため、給料も低く抑えられ、毎日ぎりぎりのところでシフトを回していた。

自分の好きな日に休暇を取ることができる者などいなかった。

私は、1カ月間の研修を通じて、保育士の業務内容が処遇に見合ったものかどうか見極めたいと思った。

1カ月前まで、蒸し暑い工事現場で雑工として働いていた私にとって、クーラーが効いた綺麗な建物の中で仕事ができることは幸せだと感じていた。

トイレ掃除や雑草取りは全く苦には感じなかった。

今回の研修で、大切な他人の子供を預かる保育士の責任の重さを体験することはできなかったが、それを差し引いても保育士の処遇は妥当ではないかと感じた。

こうして私の1カ月間の「保育士見習い」は終了した。

 

防衛大学校物語 第240 -保育園のお仕事-

息子が生まれた時も、夜泣きをあやす妻にいつも背を向けて寝ていた。

電車で泣き叫ぶ子供を見ると無性に腹が立つ。

こんな子供嫌いの私に保育士の真似事なんてできるのだろうか?と不安に思っていた。

兎にも角にも、女性保育士たちの控室の奥にある小さな物置で持参したジャージに着替え、支給されたエプロンをつけて、担当する2歳児クラスの部屋のドアを開けた。

すると部屋の中にいた子供たちが一斉にこちらを向くと、わっと私の方に駆け寄ってきたのだ。

園児にとって、珍しい男性保育士がやってきた、あるいは毎日遊んでくれるお父さんのような人が現れた、というふうに映ったに違いない。

あっという間に、私の周りに子供たちが集まり出した。

女の子はちょこんと私の膝の上に座り持ってきたお気に入りの絵本を読んで、と私にせがむ。

ほかの女の子は私の膝の上の「椅子」が空くのを横で待っている。

本を読んでいる間も、絶えず男の子が2人くらい私の頭や肩の上に乗っかっていた。

園児に馴染めるだろうか?という私の不安はあっという間に払しょくされた。

私は園児たちから嬉しい手荒い歓迎を受ける羽目となったのだ。

私にできることは園児と一緒におもちゃで遊んだり、絵本の読み聞かせをするくらいだった。

あとはトイレ掃除や庭の雑草取りも率先して行った。

園児たちの昼寝の時間には、安心して眠りにつけるようにトントンと園児の体に触れてあげるのも保育士の役目である。

はじめはうまくいかなかったが、次第に私のトントンに安心して眠る子供も現れるようになった。

私が保育士の見習いになった瞬間だった。

 

防衛大学校物語 第239 -保育園-

友人で同年齢のK大アメフトOBのHさんに働き口について相談した。

Hさんの人脈はとにかく広かった。

その結果、T大アメフトOBで現在保育園の運営会社を経営するI氏に話をしてくれることになった。

I氏と私は数年前に開催された関東アメフトOBによる懇親会でたまたま隣の席となり、名刺を交換した関係だった。

新興の保育園株式会社だったが、日本で5本の指に入る規模に成長していた。

Hさんと一緒にI氏の運営会社の本社に赴き、早速、面接となった。

I氏は私の事情を理解してくれて前向きに検討すると約束してくれた。

その時、I氏から「ウチの新入社員にはまず初めに1カ月間の保育園研修があるが大丈夫か?」と尋ねられた。

なりふり構ってはいられない。

私は、「大丈夫です」と、即答した。

こうして一週間後に内定をもらい、ようやく私は無職の日雇いアルバイト生活に終止符を打つことが出来た。

故郷の親には自衛隊を辞めて最初に入った会社をすぐに辞めたとは連絡していなかった。

新しい保育園会社に入社したことは、入社後しばらくしてからようやく母親に伝えた。

私は入社式の後、翌日から自宅近くにある保育園に自分のジャージと会社から支給されたチェックのエプロンを携えて毎朝出勤することになった。

48歳のおじさん保育士の誕生である。

 

防衛大学校物語 第238 -任侠者の男気-

自衛隊を辞める前、自宅近所の居酒屋である男性と知り合いになった。

見るからにカタギで無いような10歳以上年上の年配の人だった。

私が防大出身の戦闘機パイロットと分かると、えらく気に入ってくれた。

その人は、私くらいの世代なら聞いただけでビビる都内の超硬派私立大学出身だった。

いつもその人は「大学の同期生は皆、警察官かヤクザになったと」豪語していた。

現在、表向きは観光業を営んでいるが、裏の顔は少し怪しかった。

顧客はもっぱら中国の富裕層だった。

その富裕層に対して夜の観光も提供していおり、その内容は少しグレイであることは容易に想像できた。

とにかく羽振りが良く、居酒屋では見知らぬ客にもよく奢っていた。

私も、フィリピンパブに誘われて、そこで2人で豪遊したことがある。

お会計の17万円はその人がキャッシュで全て払ってくれた。

求職活動中に、その人にも会って、何か職を紹介してくれないか相談した。

失業者となってしまった自分の運命を呪い、こうなったならヤケクソでヤクザにでも何でもなってやろうと思っていた。

結局、その人は私に対し、表向きの観光業の営業職の話しかしてくれなかった。

きっと、元幹部自衛官パイロットに、グレイな夜の仕事を斡旋してはいけないというその人なりの男気だったんだろうと思う。

そして、その人から「何事も自分自身の手で掴み取るしか無い」というエールをその人から受け取った。

きっとその人は、そうやって今の地位を築いたのだろう。

 

防衛大学校物語 第237 -大手航空会なんて無理無理-

名古屋の宇宙ベンチャーでお世話になる直前に、ある現役自衛官と新宿の居酒屋で会った。

彼は、個人的に企業の採用情報に詳しかった。

彼とものすごく親しかった訳ではなかったが、彼は快く会ってくれた。

勝手に自衛隊を飛び出たにもかかわらず、窮地に陥ったために現役に頭を下げるのは、我ながら情けないと思った。

しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。

彼は私の自衛官時代の経歴を踏まえて、既に企業のホームページなどに掲載されているいくつかの採用情報を教えてくれた。

その中の一つに赤い翼の大手航空会社の採用情報もあった。

そんな大手企業に採用してもらえる訳は無いと、最初から諦めていた。

居酒屋で別れる前に、彼は自分の愚痴をこぼした。

それはパイロットばかり昇任していて、パイロットでは無い自分は冷や飯を食わされているというものだった。

私から見ると彼はうらやむほどの出世コースに乗っている一人である。

どんなに偉くなっても出世欲は消えないのだと内心思った。

航空自衛隊トップの航空幕僚長になり損ねた者は「なぜ自分が航空幕僚長になれなかったのか?なぜ自分は同期の2番手に甘んじなければならないのか」と悔しがり続けるということだ。

結局、航空自衛隊OBが所長を務める新興の安全保障シンクタンクに応募してみた。

怪しい情報商材を販売する会社が母体だったが、研究センターでの勤務経験のある私にとっては親和性のある、まともな職種のように思えた。

一縷の望みをかけて採用面接でそのOBに猛アピールしたが、結果は不合格だった。

またOBに救ってもらえなかったという気持ちだけが残った。

 

防衛大学校物語 第236 -宇宙ベンチャー-

名古屋の宇宙ベンチャーの社長さんに働き口がないか頼んでみた。

自衛隊を退官する前、浜松基地で勤務していた時に、宇宙ベンチャーの説明会に参加して以来の関係だった。

スポンサーである大手航空会社から資金を調達に成功した直後であり、私がバイトをしながら職を探しているのであれば、しばらくウチでバイトとして雇ってもいいと言ってくれた。

私はキャリーケースに荷物を詰めて名古屋へ向かった。

現地に到着して私は愕然とした。

オフィスといっても、それは港湾沿いの古びた倉庫だった。

かろうじて机と椅子がある程度で、その他は何も無かった。

私の最初の仕事は、自分の寝室となる部屋の網戸と出入り口のドアを製作することだった。

慣れない電動工具で指を切断しそうになりながら黙々と作業を続けた。

もちろん倉庫の中はエアコンも無い。

じっとしていても体力を消耗する日々が続く。

倉庫の2階は私の寝室となった。

正直なところ北朝鮮の強制労働施設よりも悪かった。

そして朝になると足が痒くてたまらなかった。

途中で、米国から韓国籍の大学生がインターンとして合流した。

息子とさほど変わらない年代の大学生と不思議な共同生活が始まった。

毎晩、社長さんの車を借りて2人で銭湯に通った。

昭和ノスタルジック満載の日本式の銭湯に大学生はどう感じたのだろうか?

夜のコインランドリーでお互いの洗濯を待ちながら、車の中で好きなアニソンやKポップの話をした。

48歳。

まだ、暗闇の中にいた。